アメリカ留学(1965年~)

私の1960年代の留学体験についてお話申します。何かの参考になれば幸甚です。 私が留学を決意したのは1964年で公立学校の教師をしている時です。 その頃は日本経済は未だよちよち歩きの時代であり、私の教師としての給料は、一ヶ月7,000円余りでした。 下宿しながらの生活は決して楽なものではありませんでした。 当時は男性の背広が1着1万円から1万5000円したことを覚えています。従って背広を買うのに当時でいう月賦払いでした。 下宿代も6畳で2,000円でした。 私はこんな生活がいつまで続くのかいつも不安でたまらなかったことを昨日のように覚えています。


【当時の教員採用通知書です。今では考えられないかもしれませんが、この頃は文書が手書きでした…】

当時、学校の先生になる人は家庭の裕福な(そのように思えた)人や神社やお寺さんの御曹司と相場が 決まっていたことをよく耳にしたものです。 日常の生活に不自由のない人々がなる職業じゃないのかと思うようになったのです。 私のような田舎生まれの何の富も持たない者にとってはいつも惨めさを感じながらの日々の生活でした。 大げさな言い方ですがこれでは自分の将来に何の希望も持てないと言う不安の気持ちばかりが 頭をかすめるようになったのです。

終戦後長い間米軍の占領下にある日本はどのような方向に進むのか当時の私には想像出来なかったことを記憶しています。 米兵の姿を見聞きしていた日本人にとっては彼らはとても格好良く優雅に見える人々であり、 一種のあこがれみたいなものがありました。 自分も彼らの国にいくことができないものかと思いはじめたのはその頃です。 多分1960年後半頃だと記憶しています。それからは何とかして、行ってみたいと言う気持ちがだんだん強くなり、 同時に自分の勉強した英語を本場で更に鍛えたいという思いに駆られました。それからはもう心はアメリカ一辺倒、 どうしたらいけるのかを真剣に考える日々となったのです。

しかし当時学校だけで学んだ英語(書物を読むだけの英語の勉強)が本場の英語圏で通用する確証は 何一つない時代であり、どのように英語会話を身につけるかと悩んだものです。 そこで思いついたのがペンフレンド(外国人と英語で文通する)と言う方法でした。 当時は雑誌などで盛んに紹介されていました。そこで相手を見つけては外国にひたすら手紙を送り続けました。 英語を書く練習が出来るのは文通ぐらいのものだったのです。

また英語を聞く練習はNHKのラジオの英会話番組が唯一の頼りであり、下宿で時間があれば再放送を聞くのを楽しみに していたものです。 その上当時は未だ今のようなテープレコーダ(今では古くなり、CDに変わりつつある)が普及しておらず、 聞きながらそれを録音する個人的な手段がなかったのです。

しかし幸いなことに、当時は自分の趣味として部品を集めてラジオやテレビを作るのが好きだったので、 よく大阪の浪速の電気街に行ったものです。 そこで見つけたのが針金(録音テープの代わりをする)に録音することができる外国製の録音機でした。 金きり音でしか聞くことの出来ない音質のものでした。 その録音機にNHKの英語放送を録音して何回も聞いた記憶があります。 当時英語を学ぶところと言えばYMCAぐらいしかなく、そこで英語の先生と言えばインドからきた人が 大半であったことを記憶しています。

当時英語ができる人の基準と言えば、文法知識と、読解力ぐらいで、公立学校で英語を 教えている先生の中で、英語が話せる人など皆無に等しい状況でした。 まして英語で対話する機会など私のような田舎の学校の先生には全くなく、 話せる英語の重要性もあまり重要視されていませんでした。

そのような環境の中での海外への留学は、無謀だと同僚の先生方や友人などに忠告され、 なぜそんなところ(アメリカ)に行くのか、、、、とよく言われたものです。

その上、為替のレートは今の中国と同様、ドルに対して固定された状況下にあり1ドルが日本円で360円の交換レートで 取引されていました。 従って、当時の日本の生活レベルから考えると海外に行くには経済的に大変な負担を強いられたのです。 ちなみに航空運賃は片道ロスアンゼルスまで今の日本円で40万程度でした。 今ではロスまで当時の10分の1(季節によるが)の運賃で誰でも簡単に行くことができることを考えれば、 その時代の海外渡航は高値の花であったわけです。

そして、アメリカの大学に留学するには一般の人にとっては大変面倒な手続きがありました。 外貨(米ドル)の持ち出しをするわけですから(日本政府の方針として)外務省が主催する 英語能力テストの受験が義務づけられていました。 それに合格しないと外貨の持ち出しの許可が出なかったのです。 それほど当時は外貨の流失が制限されていたのです。

次の難関はTOEFL(アメリカの大学や大学院に留学を希望する人に)課せられる英語テスト (今日では日本でも1ヶ月に1回は受験できる)である程度(大学の場合は550点以上、 大学院では620点以上)の得点に達しないと大学からの入学許可書の取得は困難です。 その時代は十分な英語の勉強をする手段が無いため相当高いハードルでした。

そのほかには留学の期間に応じて十分な学資金の証明、アメリカ大使館からの学生ビザ (大学の入学許可書を大使館に持っていく)の取得、パスポートの申請と取得などが義務付けられています。 (詳しい留学に必要な手続きはここではお話を省きます)当時の海外留学は私にとっては、 大げさですが人生の一大事業のように感じたものです。

  • EPTの沿革とアメリカ留学録
  • アメリカ留学(1965年~)
  • 日本からの出国 ロスアンゼルス~カンサス州へ到着するまで
  • 大学に電話をする
  • アメリカの大学とは
  • 視聴覚教育について
  • 大学の授業
  • 有意義な大学生活
  • ベッドでも革靴を履いて寝る
  • 日本人のいない学校
  • 英語しか通用しない世界
  • 下宿先での出来事
  • 経済的に恵まれた学生生活
  • 夏休みの旅と仕事
  • バスでの長旅
  • 卒業する日を迎えて
  • 帰国は船旅で