英語しか通用しない世界
その国の言葉が思うように話せない苦しみは、流れの止まった川のよどみでおぼれているようなもので 大きい不安が毎日襲うものです。 質問されても返答が出来ない、会話の中にさえ入れないもどかしさは、言いしれぬ劣等感にさいなまれ焦ります。
私の留学目標はどんな事態になっても目的を達成し、日本に帰国するという願望であり、なせば成る何事も! 、、、の覚悟をしていたので色々な難しさを何とか克服できたのだと思います。
当時のアメリカでは外国人への差別は激しく、まして言葉(英語)がまともに話せない外国人に対しては 誰一人としてヘルプや同情の声さえかけてくれない時代でした。 外国人留学生を心底から理解してくれる人など一人もいないと思えるくらい冷たい社会環境であり、 日本が地図上のどこに位置するかさえ知らない人ばかりでした。
特にmidstates(中西部)と言われる州(カンサス)であり、奴隷制度の名残を色濃く残していて、 白人社会のみが非常に幅をきかせていました。 当時、アメリカ黒人と白人の間では大変な争いが毎日発生し、多くの犠牲者が出ていました。 日本からの留学生だと話しても、それはどこ?、、と良く聞かれました。 その際にはアメリカ軍による広島の原爆投下の話を持ち出しては日本について説明したものです。
その上、当時は日本の製品の認知度は非常に低く、made in Japanイコール粗悪品というイメージが 強く定着していた時代でもありました。