大学の授業
1965年に入学を果たしましたが、 最初の9ヶ月は英語訓練そのものと、1,2科目の専攻コース併せて学びました。 しかし、学業はハードなもので、英語コース以外は、教授が何を言っているのか殆ど理解できず、 質問がこちらに振られてもイエスかノーというのが精一杯でした。
特に教育哲学と心理学の内容は難解で2学期(9ヶ月間)はすべて学期の途中でwithdrow を選択しました。 文化と発想が根本的に異なる国でのこれらのコースは外国人の私にとって理解するのが不可能と思えるくらい 難解なものでした。
しかし1年半の米国での生活と学習を通して、卒業6ヶ月前の学期でやっとそれらを専攻し、 単位を無事取得することが出来ました。
英語を母国語としない外国人が、その国の学生と肩を並べて講義を受けるのは今思うと想像を超えるプレッシャーで、 現地の学生の何倍もの学習時間を費やさなければ何事も達成出来なかった経験をしました。
幸い、英語の訓練は常に上位の成績が収められ、TOEFL (Test of English as a Foreign Languageの略称)の得点も9ヶ月で600点近くの高得点が取れ、 GRE(Graduate Record Examination)、 大学院コースを専攻するための能力テスト)もその時点でクリアー出来て、 めでたく次の学期からすべての専攻コースに許可されました。
アメリカでの大学教育は小グループに分かれるのが一般的で(多くても12人程度)、 教授と学生が一体となって議論を戦わす方法で講義が展開していきます。 従って、教授の講義を一方的に聴いているだけでなく、専門的な内容について両者が 議論を深めて行く過程を重視するのがアメリカ式教育であるということを体験しました。
講義の後には、教授ごとに50-100ページの専門書(テキスト)の読破の宿題があり、 仮に一週間3コースを専攻すると、一日おきにテキストを50-100ページ呼んで内容をまとめて行かないと 講義に出席して、専攻内容の議論を深めることは出来ません。
翌日の講義では、常に小テストがあり、テキストの内容に関するデイスカッションと質疑応答があり、 教授が全員の理解度をチェックして記録していきます。 それが後の自分の成績となって評価されるのです。 これだけの量のテキストを毎日読み、内容を理解して、大意をつかむには、 授業が終わってから毎日8-10時間くらいの時間を費やす必要があり、 最初の頃はストレスとノイローゼ気味の症状が長い間続き、何日間も鼻血が出て止まら無かったことを思い出します。
毎日、分厚いテキストを読むために、日本から持って来た英和辞典が唯一の頼りで、英語のバイブルみたいなものでした。 当初は1ページ読むのに2時間くらいの途方もない労力を費やしたものです。 当時からアメリカの専門書は1000ページから3000ページのもが普通の教科書で、そのほかに副本などが数々あります。 この膨大な学習量と教育方法はまさに強大なアメリカの個性を作り上げた原動力となって、 世界に類を見ない力強い技術発展を遂げているのかもしれません。
日本の大学生にも是非見習って欲しい事柄が山ほどあるような気がします。 難解な試験問題で合格点が取れれば大学に入学を許可される日本式もあってしかるべきと思いますが、 大学で広い教養と専門分野を勉強すると言うことは、自己の能力を開発して、社会に何が出来るかを見極める機会と すべきではないでしょうか。 米国の大学ではそのことをじっくり学んだような気がします。
我国の将来は諸外国との関わりを更に深めて、ビジネスや人事交流を促進することで、国の発展を成し遂げる以外に 選択肢はないことは諸般の情勢が語っています。 それには従来通りの横並的な発想だけでなく、色々な舞台で個性を発揮し、自主的に堂々と世界の人々と渡り合える個性的、 かつ創造的な人格形成が必要な時代になっていると思います。
自分の人生を変えるのは自分の力を信じることから始まるのです。 ただ漫然と高等教育を受け卒業出来たらよいの発想では、 つぶれないと信じながら大会社に就職する保守的な発想と何ら違いはありません。